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中世の山城 八潮見城(上遠野城)の由来

「八潮見城」とは、「上遠野城」の俗称である。

よく晴れた日には、城址・見晴台(夢展望)より、遠くにいわき七浜(勿来、小名浜、永崎、豊間、薄磯、四倉、久之浜)と北茨城の海岸線の一部、すなわち八つの潮路を見渡せる事から、八潮見城と呼ばれた。

  八潮見城は、福島県いわき市遠野町上遠野字根古屋および本町地内に所在する。

JR常磐線湯本駅から御斎所街道(県道いわきー石川線)を西に約10キロ、車で約15分の位置にある。 常磐高速道 湯本I.Cからは、車で約10分で到着する

上遠野中学校校舎裏手の丘陵が、八潮見城跡である

  城の特色は、山の頂上や尾根・斜面などを削り、整地して曲輪(くるわ・平場)とし、盛土や掘削りを行なって、土塁や堀切り、空掘りを作り、石垣を使用した平山城である。

  上遠野城の平面構成(縄張り)は、城への登攀(とうはん)道である堀底道や道、建物などが建つ曲輪、出入口である小口、水を供給する井戸などの水ノ手、空掘や堀切りなどの堀、土塁、石積みなどの組み合わせからなっている

  城の中心部分は丘陵の頂上部に見られ、地形を考慮しながら、城内で最も大きな曲輪郡と、土塁・空堀・小口・門跡・水ノ手などを、巧みに組み合わせている。

  門跡付近には、侵入者の容易なる入城を拒んでいる絶妙な仕掛けの組み合わせがある。

すなわち、門前の狭小な曲輪は、空掘りにより遮断され、それへの渡河は、右手土塁上からの迎撃に晒(さら)されながら、木橋なども通過しての渡河となり、そろばん橋と言われる引き橋が用いられていたと思われる。

  城主は、国人領主から、戦国時代「磐城」を統一し支配した岩城氏の有力家臣となった上遠野氏であった。上遠野家は、その祖を「俵藤太秀郷」とする下野国(栃木県)小山荘の豪族小山家の分流である。

 慶長7年(1602)徳川幕府の領地没収による岩城氏の没落に伴い、上遠野郷は、幕府の領となり、駒木根右近利政(1543~1635)が代官となり支配した。
上遠野城は、利政が一部手直ししたことがあったと思われるが、まもなく廃城となった。

 元和8年(1622)上遠野郷十ヶ村は、棚倉藩の領地となった。

  現在、上遠野城(八潮見城)へ到る登攀道(散策道)等は、地元ボランティア団体の八潮見城探検隊により整備されている。
上遠野公民館の駐車場から、随所に道案内板が設置され、三峰神社参道を登り、亀の子石山(のろし台跡)から、しのぶ平(三角点)を経て、丘陵の尾根づたいを通り、城址・見晴台へと到る。

 下山道は、城址・見晴台(夢展望)から、そろばん橋を渡り、曲輪や堀底道を通って、八幡神社へ向かい、上遠野公民館の駐車場へ戻って来るのが、一般的である。

 総工程 約4Km、ゆっくり散策して2時間程度のハイキングコースとなっている。

​ 平成15年4月24日、八潮見城(上遠野城)は、いわき市指定史跡になった。

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